高校三年の夏大磯で。


あれは高校3年の夏だ。 僕はアルバイトをしに1ヶ月西湘の大磯に行った。 1982年の夏休みのことである。 その頃、僕はファーストフードでアルバイトをしていた。 横文字がかっこ良く見える時代で,今の若者からは想像がつかないと思うが、けっこうなステー タスがあった。 呼び名も「ミスド」「ケンタ」「ケンチキ」「マック」「マクド」などと東京、大阪では違い があった。 最近の「ウルフギャング ステーキ」や「クアアイナ」といったところか?(本当か?) この大磯の店はできたばかりで、夏の深夜店舗(2時まで)であった為、人手不足が深刻であ った。かくして僕が東京から呼ばれた。呼ばれたと云っても、湘南で夏を過ごしたいだけのこ とであった。高校生が深夜2時。コンプライアンスくそ喰らえである。 今では深夜オープンの店や24時間営業の店は珍しくないが、この頃みんな夜は寝ていたので ある。 しかしこのユニフォームを着ているアルバイトの女の子が可愛く見えてしまうのは、白い砂浜 で逆光による水着の女性が可愛く見える、はたまたスキー場で逆光のウェアーに身を包んだ女 性に一目惚れする「あれ」と同じ作用があるのは云うまでもない。 「ポテトはいかがですか?」とにっこり微笑まれ、サラダや遂にはアイスまで買ってしまった 、苦い経験をお持ちの方も多いと思う。 この頃、この大磯の田舎でも深夜はけっこう客が来たものだ。 何せ平塚から来ても、小田原来てもコンビニがあるくらいだったので大磯の「デニーズ」と僕 のアルバイト先は流行っていた。 何故かできたばかりの店のアルバイトの女の子には可愛い子が多い。 その当時は外食産業がCMを流す時代ではなかったが、「マック」やその会社は、がんがん流 れていた。 推測するにオープンセレモニーの時など招待する地元の名士などに店長が「アルバイトが不足 しているので、どなたか心当たりはございませんか」などと問いかけるのである。 ここで名士は「うちの姪っ子がいたなあ〜〜」なんて話になり、姪っ子に「ちょっとの間でい いからやっておくれ!」となるである。 したがいこんなところにこんないい女が、または領家の品のある娘が、いるという具合になる のである。その会社の信用が家庭内にあったのかもしれぬ。 仕事は終わればみんなで、または単独でもその娘と一緒に飯食いに行きませんか?となるのは 至極当然の成り行きと言ってよかろう。 といっても田舎のこと。自分の店が閉まってからやっているのは「デニーズ」しかない。その 「デニーズ」の薄いコーヒーを4杯くらいお替わりすると時間は朝4時くらいになる。 その後は「セブンイレブン」でビールを購入し、ビーチに行くのである。コンプライアンスく そ喰らえである。 セブンイレブンでビールを手に入れる前にちょいと時代検証をしたいと思う。 「そんなもんいらん!」とお怒りの輩も多いと思うが、この大河ドラマ的、時代検証とか時代 考察が必要なのである。1982年頃は、 「じゃじゃじゃ〜〜〜ん」とテーマ曲が流れ、火曜サスペンスがやたらと元気な時代である。 さてこのセブンイレブンの数日前に大磯から東京に舞い戻った。 何か「健さん」が網走から戻ったみたいだが、そんなにかっこ良いものではない。 今はどうか知らぬが、8月15日は健全なる高校の登校日であった。 これを「バックれる」とあとで色々煩(うるさ)かったのである。 久しぶりに帰郷した僕は、この当時流行の兆しをみせていた「パチンコ」をしに高田馬場へ出 向いた。 今では連ちゃん当たり前のご時世になったが、この時、お目見えした「フィーバー」が現在の パチコンブームの元祖である。 何か「マジンガーZ」のような動きをし、迷路みたいな中心部に玉が落ちていく機械で、実に おもしろいものであった。 僕もご多分にもれず、高校生ながらデビューしたのである。 ちょうどこの頃は多摩地区では「宇梶剛」や「岸谷五郎」など老け顔が、暴走族で暗躍してい たらしいので、老けていた真面目な高校生は別に疑われもしなかった。 高校のある多摩地区で出入りすると、停学になる恐れがあるので、わざわざ忘れもしない高田 馬場まで遠征したのである。 しかしこれがいけなかった。 「じゃんじゃんばらばら」出ていたことと、サザンの「ナイトクラブで〜〜男も濡れる〜〜」 という曲に集中し過ぎて掏摸(スリ)に遭って財布をやられてしまった。 おまけにその頃はタバコを吸っており、時悪く、インドネシアの「ガラム」を愛用していた。 これが今考えると、とてつもなく臭いタバコで、甘い匂いを発していた。 サーファーに人気のタバコだったようだが、辺りには大変迷惑な煙であった。 その当時は珍しかったのか、マリファナに間違われたのか、「じゃんじゃんばらばら」の途中 つまみ出された。コンプライアンスくそ喰らえである。 「盗られたものは仕方ねえ〜〜」「タバコくらいなんでえ〜」と呟きながらいそいそと大磯に 帰った。 ちょうどその数日後、職場に電話があり、免許が「足柄」の警察に届いていると母からであっ た。 高田馬場で掏られた、財布の中にあった免許証が足柄の交番に届けられていた。 もちろん現金も財布も無く免許証だけだ。 金太郎?足柄?金太郎?足柄?と僕の頭の中はぐるぐる回りだした。 僕が下宿していた国府津から足柄までは近距離であった。 取りに行くとお巡りさんから「無免許でここまで来たのか、馬鹿者!」とまたまたぶつぶつ怒 られたのであった。コンプライアンスまるでなしである。 しかし高田馬場から足柄まで良くきたもんだと、一頻(ひとしき)り感心しているのは自分だけ であった。 2017年の日本の言葉は乱れているというが、この当時はそれ以上に言葉が乱れていた。 彼女を誘う時に「今日、単車のケツに乗るか?」というのがあった。 これを正しく言うと「今日は僕の中型自動二輪車の後ろに乗りますか?」とこうなるのである 。 今は「単車」は「バイク」に「ケツ」は「シート」になっている。 今の方がお上品である。 さてセブンイレブンの前の「デニーズ」に話しを戻したいと思う。 深夜3時の「デニーズ」はさすがに柄が悪くなっていた。 その中でも人相の悪い「にーちゃん」が僕に向かって歩いて来るではないか? この頃は「多摩ナンバー」を付けているだけで湘南辺りでは目をつけられていた。 これは一概に多摩の「ブラックエンペラー」、「立川地獄」という人たちが悪いのである。 そこを「湘南ピエロ」が狙っていただけの迷惑であっただけだ。 やってきた「にーちゃん」に僕は身構えた。 そして眉毛を剃り込んだ「にーちゃん」は清水の次郎長の子分、森の石松の如く腰を屈めて低 い声で僕に云った。 「にーさん!どこのテキ屋っすか?」僕はアルバイト先の横文字のスイングトップを着ていた のである。どうもそれがテキ屋に見えたらしい。 拍子抜けした僕は突然「ゴッドファーザーのマーロンブランドになってしまい、し〜し〜と手 であっち行け」ポーズをとったのであった。 これは本当の話でまだその有名なファーストフードを知らない奴がいたという勉強にもなった 。 さて「デニーズ」を出て、セブンイレブンに立寄り「ビール」を購入、ビーチへと向った。 浜辺は静まりかえっており、白々夜が明けようとしていた。 やっと領家短大生のおなごとも距離が縮まり、いい雰囲気が漂ってきた瞬間に近くで「お〜い どざえもんが揚ったぞ〜〜〜〜!!!」「ええええどらえもん???」と僕。 隣の短大生は「バカ、どらえもんじゃなくどざえもん」。彼女は呆れていた。 行方不明になっていた遺体が浜に打ち上げられたのであった。 その頃の僕は雑学のざの字もなく、どらえもんと語呂が妙に似ており間違ったのだ。 ムードも何もなくなり、「とほほ…」と呟き、仕方なく僕の下宿に行くこととなった。 ここの記憶が実に曖昧で連れ込んだ記憶はあるが、その内容が未だ不明である。 宿に連れ込んだと書くと妙に卑猥になるので「やどにおつれした」と記載したいと思う。 連れこみ宿などと記述し、突如青春時代がフラッシュバックしたら大変なことになる。 しかし今思い返しても(あの短大生はよかおなごであったな〜〜〜)と西郷さんになってしま うのである。 昨今ワイキキで、おなごとビーチで朝の海を眺めることもなくなったが、「大磯消防署」から 「ホノルルファイヤーデパートメント」に格上げした男達から発する「お〜い揚ったぞ〜〜」 が聞こえてきそうな気がするは僕の勝手な妄想である。 西湘の国府津からハワイのワイキキまで太平洋は続いていた。 西湘バイパスが台風で陥没した、1982年の暑き夏のことである。煙草を吸ったり、酒を飲 んでいたのは、アルバイト先とは一切関係なく、全て自分の意思でしていたことである。思い 返すとその頃から、僕の放浪グセは始まったいたと、妙に納得するのである。コンプライアン ス何ですか?

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