
プロ野球の歴史を語る上で、この人無しでは語れない。昭和の名審判「富澤氏」である。ひょんなことからお知り合いになり、今1番交流のある、家族みたいな存在になってしまった。もちろんジャイアンツV9時代に大活躍され、いわゆるお茶の間で良く見かけであろう御仁である。たまに昔話しも、聞かせてくれる。僕がたまに「昔の話を聞かせて下さいよ」と振ると膨よかで知的のある顔が、一瞬キリッと引き締まる。遠くを見るような目で、「あれは1958年昭和33年の4月5日だった。俺はちょうど2年目の時だった。長島が立教から鳴り物入りで巨人に来た。その2ヶ月前のキャンプで、金田が後輩を背負い丘を駆け上がっているのを見たんだ。その決起迫る形相は、言葉では云えないくらい凄いものがあった。先入観はいけね〜が、新人の長島にはちと辛いと俺はこの時思ったよ。そして4月5日。俺は1塁塁審だった。当時6大学の花形だった、ゴールデンルーキー長島を一目見ようと、後楽園球場は熱気に包まれれいた。しかも時の大投手「金田」との勝負だ。しかし4打席とも空を切った。ほろ苦いデビュー戦だったな長島は」。貫禄の金田は11回を投げきり威風堂々の勝利投手。翌日もリリーフで登板し長島から更に三振をひとつうばっている。この時富澤氏は「プロは甘くねぇな〜」と思ったそうだ。それから幾多の名勝負があったが、この富澤氏は昭和の名勝負を見続けて来た。王の756本の世界記録の時も球審をつとめている。今でもライト方向から王の一本足の写真では、後ろに富澤氏がしっかり写っている。今で云えば「持ってる男」だったのであろう。自身は大変厳しい人で、審判の用具は非常に重い。故に担ぐ新人がいたそうだ。その新人に、「水道橋の駅から後楽園球場までは人が見ている。だから用具を担ぐのではなく持て」と。こんな上司今は生きていけないし、部下もすぐに辞めてしまうだろう。でも僕は誠実なこんな上司は、今でも必要だと思っている。現在は寒い東京の冬を避け、毎年ホノルルにやってくる。セーフアウトのゼスチャーを、シャカに変えて。御年82歳の富澤氏。頭も目も歯も、体も調子良いとのこと。僕は富澤氏と、次の東京オリンピック一緒に見に行きたいと真剣に思う。僕の生まれた1964年のオリンピックには、現役活躍中で見に行けなかっただろうから。
富澤ご夫妻の大ファンです。私共夫婦も是非東京オリンピック観戦に参加させてください。
コメント有難うございました。夫妻のファンは全国多いですね。大勢でオリンピック見れるといいですね。宜しくお願い致します。